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しそうとしてのぶんがく
思想としての文学
戸坂 潤
「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页
俗物によると日常生活は最も俗悪なものであって、夫は本来の生活からの堕落だということになっている。多分所謂日常生活者も又この信心深い本来生活者(?)もこの点には異論がないようだ。なる程日常性という言葉が神学的用語である限り、無条件にそうなることに決っている。一体神学上の範疇組織は、こうした本来生活者を、例の日常生活者である無産者的大衆(大衆は昔から貧乏だった)から社会階級的に引き離すのに役立つように出来ているからだ。このことを信じないものは取りも直さず彼が広い意味の神学者であることを告白しているに他ならない。
併し話は神学のことではなくて哲学のことにあったのだ。吾々は日常性という概念を哲学的に、即ち神学的にではなく、用いなければならない。そうするとどういうことになるか。処がまだ一向この日常性という概念が哲学的にも分析されていないようである。
神学者(即ち又超俗物派の哲学者)は日常性の特色を「人々」という関係に見出している。世間の平均的な「人々」はそう云っている、「人々」はこう思うだろう、ということが或る一人の人間に於ける日常性だというのである。コンベンションや歴史の必然性(だがそこで云う歴史の必然性とは一体どういうことか?)に縛られ、ひたすら之に追随するのが日常性だというわけだ。