轻读日语

轻松读懂日语经典作品

ja-reading.com

轻松读懂日语,轻松阅读日语。在线阅读日语经典作品。支持在阅读过程中显示假名、查询生词、翻译句子。

しそうとしてのぶんがく

思想としての文学

戸坂 潤

「思想としての文学」三笠書房、1936(昭和11)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,809 字 · 408 页

青空文庫

今日、随筆の存在を世に知らせたものは何と云っても内田百間だろうが、氏のどの随筆集も部数少なくとも一万から二千の間を下らないそうである。

この現象は色々に説明され得るだろう。一方に於て確かに随筆そのものの文学的価値が何かの原因で高く評価され始めたか、乃至は広く認められ始めたかのためであり、他方に於ては、日本で文学の代表者と考えられ勝ちな小説(日本では不思議にも詩や劇が文学の王座から斥けられているのは多くの詩人が憤慨している通りである)、即ちフィクションに基くロマンやノヴェルが、芸術的な魅力を多少失わねばならなくなった何等かの原因があるからだろう。之は多分、所謂純文学というものが、大衆文学に圧倒されつつあるという現象と関係があるらしく、つまり純文学は大衆文学に移行するか、それでなければもっと純粋な(と云うのは)もっと身辺的な私小説的な形であるらしい随筆に、そのエッセンスを奪われるか、どっちか、という岐路に立たねばならぬ社会的理由があるからではないかと思われる。

久米正雄の説によると、大衆文学(久米・菊池のも入れて)はさておき、純粋な文学即ち余技としての文学は、私小説で又身辺小説でなければならぬということだが、この説の意味やその当否は別として、一旦そういう方向への移行を認めるとすると、ではなぜいっそ思い切って