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まと
魔都
久生 十蘭
「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页
勝手口の扉の傍の壁が二合ほど剥げ落ち、それを塗り直した壁土の余りである。真名古がそこへ眼を近付けて見ると、塗直した新しい漆喰の上に、誰か背を凭せた痕が微かに残っている。洋服の背筋の縦の縫目と、上着の裾の横の一線、それからだらしなく下った皮帯の端が、鋳型彫のように薄っすらと彫り込まれている。皮帯の端をブラ下げたり、こんなところに凭れたりするところを見ると、この男は酔っていたのかも知れぬ。木箱の中の漆喰の塊りはまだ湿っているのに、壁の漆喰のほうはもうすっかり乾いている。圧して見ても指の痕もつかぬ。この方の乾きの早いのは、すぐ傍にスチームの管が通っているからである。壁を塗り終えた時間と、今朝スチームが通り始めた時間を調べると、この男が大体何時から何時までの間にこの壁に凭れたか、容易に判明するであろう。リノリュームの床の上に靴跡が残っている。紙を刻んで丁重に靴型をとると、それを衣嚢におさめ、巻尺を取出して上着の裾までの距離を測ると手帳を取出して、〇米八六と記した。勝手の扉に耳をあてると、その外で立番をしている人の気配がする。勝手口の階段は後廻しにする事にして、料理場の隅の扉を開けて次の部屋に入る。