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まと
魔都
久生 十蘭
「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页
真名古の手先には急に手応えがなくなり、はずみを喰らって髪の毛を引ッ掴んだまま、かなり窪地の底へモンドリ打ってころがり落ちた。シッカリと掴んだあの頭が、どういう術をもって真名古の手からすり抜けて行ったのだろう。真名古の手の中には、今もその髪の束がしっかりと握られてある。……見るとそれは生毛ではなかった。オールバックに撫でつけられた、精巧な鬘だったのである。
真名古は歯噛みをしながら窪地から這い上り、溝川の向うを眺めやるなれば、ああ、見よ見よ、薄月の光の中をタキシードを着た青道心が転ぶように逃げて行く。のみならず、その窪地のあたりには世にも妙なる香気が、そこはかとなく漂っていたのであった。
例えていうならば、春の花園の薔薇の息吹とでも申しましょうか。なんとも馥郁たる薫香がプンと真名古の鼻をうった。その匂いこそはついさっき、第一回目の総監の登場の節、有明荘の鶴子の食堂の闇の中に、漂う如くに匂って来たあの香気だった。
唖然としている真名古の顔に月がさす。その顔というものは、世にあるまじき奇妙なもので、一口につづめていおうなら、瞋恚と絶望と哀愁とが各三分の一ぐらいずつ入り交ったるが如き、複雑極まる表情を泛べていたのである。