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まと

魔都

久生 十蘭

「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页

青空文庫

私の半生を通じて嘗てこれほど愉悦の情に満されたことがありません。約めて申しますなら、酷薄非人情、鬼畜の如くに目されて来たこの真名古も畢竟一個の人間であったという儔いない発見によることなのであります。

私はこれからのびのびと余生を送ります。たとえ陋巷の一隅に市井の塵にまみれ尽そうと、私は常に幸福でありましょう。あるただ一つの楽しい思い出が生涯を終るまで私を慰め暖めてくれるだろうと思われるからであります。

これよりほぼ一時間ほど以前、前後の関係からいえば、真名古が有明荘へソロソロと忍び込んでいたころ、銀座尾張町の松屋の横丁の、夜明しのおでんやの暖簾をかいくぐって、運転手体の二人の男が、ヒッソリとした深夜の街路によろけ出して来た。

バットの煙を夜空にふき上げながら、縺れるようにして歩道の傍の車台へ近寄り、物憂そうに運転台へ乗ると、アクセルを踏んで四丁目の方へ走り出した。

助手の方が欠伸まじりに、何かウダウダと運転手に話しかけていたが、フイと気がついたように、

「もう四時廻ったかア」

といいながら車窓から首を突出して、服部時計店の時計台を見上げていたが、何を見たのか、ア、ア、ア、と息をひいて痴のように時計台を指さす。