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まと
魔都
久生 十蘭
「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页
有明荘のお馬婆や溜池署長が皇帝の顔を見知らぬというのはありそうな事だが、ホテルのボーイたちが皇帝を見知らぬわけはない。それなのにどうして加十は皇帝に間違われたのであろう。
自分が皇帝に間違われるわけは絶対にない事は、だれよりも加十自身がよく知っているのだから、自分が皇帝として待遇されていると知った時、狼狽した加十の頭に真先に浮かんだ考えというのは、政府が皇帝の身代りに自分を殺人犯人として処刑するつもりなのではなかろうかという、ゾッとするような思いつきだった。つまり自分は何と抗弁しても遁れられぬ状態で裁判を受け、否応なしに処刑されてしまうのである。そのような話はたしかに何かで読んだ記憶がある。自分が犯した罪ならいざ知らず、いささかも身に覚えがないのに殺人犯人として刑の判決を受け、終生陽の目も見えぬようなところに幽閉されてしまうのはあまりにも陰惨だ。とすればこんなところに安閑と坐っているわけにはゆかぬのであろう。ともかく逃れられるだけ逃れなくては、と急に椅子から跳ね上り、白絹の襟巻を鼻の上まで引きあげ、帽子の前鍔を深く引きおろし、ソロソロとドアを引開けて一歩廊下へ出ようとすると、ああ、早や其処には日ごろ顔見知りの警視庁の私服が三四人、何気ない体で行きつ戻りつしているのである。