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まと
魔都
久生 十蘭
「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页
すぐ向う側へ行ってまた灰皿を覗き込む。その中には上等の葉巻の吸殻が一本。
真名古はその椅子に掛けると、
「向いの椅子に鶴子が掛け、この椅子には皇帝が、こう掛けて」
といいながら足を伸すと、靴先がテーブルの脚の横木に触れた。真名古はテーブルの下に這い込んで横木を調べる。まだ微かな湿った泥がこすりついている。向う側へ廻ってそっちの横木を調べる。スリッパの裏でこすられたと見えて、ちょうどその部分だけ埃が薄くなっている。ここまではまず妥当であるが、どう考えても鶴子が掛けたと思われる椅子の位置が妙だ。真名古はその椅子に掛けて食卓の方へ手を伸して見る。とても食器までは届きはしない。椅子を動かした跡があるかと思って絨氈の上に眼を近付けて見たが、そんな跡もない。椅子の脚はしっかりとその位置にめり込んでいる。フト椅子の右側を見ると絨氈の上に巻煙草の灰が落ちている。それはドス黒い、ゲルベゾルテとは似ても似つかぬ、明かに下等な巻煙草の灰である。なぜここに灰が落ちたのか。椅子に掛けてやって見るとすぐ判る。どうしても灰皿まで届かないからだ。自分の膝に灰を落したくないと思えば、自然、右側へ垂れた手が、ひそかにこの辺へ灰を落すことになる。