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かげおとこ
影男
江戸川 乱歩
「面白倶楽部」1955(昭和30)年1月号~12月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 154,133 字 · 310 页
すぐ目の前に堅い大地がある。だが、ちょっとのことで、そこへ手が届かないのだ。比佐子は髪をふり乱して狂乱していた。自由な両手だけを、めったむしょうに振り動かして、空気にさえ取りすがろうとしていた。醜くゆがんだ顔は、汗と涙によごれ、口は白い歯がむき出しになって、化けもののように大きくひらいていた。
そのころになって、やっと年増女が起き上がった。そして、苦悶する比佐子のほうに向きなおり、そこにしゃがんで、何かしゃべりだした。毛利氏に代わって、恨みごとを述べているのだ。どうだ、悪女め、思い知ったかと、さもここちよげに笑いののしっているのだ。
もう胸まで沈んでいた。あと数分で顔までどろが来るだろう。そして、息ができなくなるだろう。比佐子は知りすぎるほど、それを知っていた。その苦しみを想像すると、恨みに燃える毛利氏の心中にも、いささか憐愍の情がわかないでもなかった。だが、いまさらどうなるものでもない。彼女を助けようとしたら、その行動によって、こちらの罪がばれるのだ。そして、こんどは逆に、彼女のほうから、どんなふくしゅうをされるか知れたものではない。
もう首まで沈んでいた。