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まと
魔都
久生 十蘭
「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页
山木は今にも泣き出しそうな顔になって、声を潜めると、
「恐いことがあるんだ。……実は、ここに持っている」
踏絵は、えッ、と息を嚥んで、
「それは、本当?……まア、なんという馬鹿な……」
山木はキョトキョトと戸口の方に眼を走らせながら、
「こんなところへ持ち込む気はなかったんだが、ひょんな羽目になって……」
と、息をきり、
「……で、有明荘を出ると真ッ直ぐに「すず本」の傍まで行ったんだが、自分で出向いて、昨夜のシャンパンの瓶をも、可笑しいと思い返して明石町の「呉竹」へ押し上り、女中に瓶を取らしてから四時ごろまで寝ころんでいたが、トイレットへ行きながら、なにげなく庭向うの四畳半を見ると、チラリと笑子とバロンセリの顔が見えた。……俺の睨んだところでは、あの刺客を「巴里」へ手引きしたのは笑子に違いないんだが、その笑子が俺を追い詰めて来た以上、その目的は判っている。部屋へ飛んで帰って、瓶を横抱きにして「呉竹」の門を出ようとすると、向う側の片側塀にハッチソンが凭れて何気ない体で張り込んでいる。こう素早いとは思わなかった。せっぱ詰って横手の庭へ走り込み、瓶をぶッ欠いて底だけ取り、板塀を乗り越えて天主公教会の横丁へ出、開国橋の側からタキシーを拾ってここへ逃げ込んだというわけなんだ」