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したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页
第二十二
嶺南の男正太郎は川荘と号し、川荘の男亮吉は鳳鳴と号し、世々家学を伝え、鳳鳴は大正八年九月十五日に没したという。
可医は竹村可医である。畏堂小林氏と同じく信州松代の城主真田信濃守幸教の家臣である。秋航は江戸の儒者西島蘭渓の義子で、『湖山楼詩屏風』の言う所によれば、詩賦書画篆刻等を善くした多芸の才人である。雲如は遠山澹。蘆洲は植村子順である。豹隠瓦※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の二人はいまだ考えない。
第二十二
嘉永六年癸丑三月三日に横山湖山、鷲津毅堂の二人が羽倉簡堂に招かれて、その邸に催された蘭亭修禊の詩筵に赴いた。簡堂の邸は下谷御徒町藤堂家の裏門前にあった。湖山毅堂の二人はこの日簡堂の邸において佐久間象山に会ったはずである。象山の詩集にこの日の詩筵の作が載っているからである。
蘭亭修禊の宴は晋の王羲之が永和九年癸丑の暮春に行ったので、嘉永六年はあたかも千五百一年目に当るのである。
羽倉簡堂は食禄五百石の旗本である。名は用九、字は士乾、通称を外記という。天保十二年五月簡堂は水野越前守忠邦が革政の際総毛の代官より抜擢せられて勘定吟味役兼納戸頭となり、天保十四年六月但馬国生野銀山の視察に出張し、同年九月帰府の後、老中水野忠邦の罷免せらるると共に、簡堂もまた罪を得て小普請に入り逼塞せしめられた。