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したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页
毅堂の新に居を卜した竹町四番地の家は旧寄合生駒大内蔵の邸内に祀られた金毘羅神社とその練塀を連ねた角屋敷で、旧幕府作事方の役人が住んでいた屋敷であったということである。角に土蔵があって幅一間ほどの広い下水が塀を廻って流れていた。門前の路を東に向って行けば一、二町にして三味線堀に出るのである。
毅堂が卜居した時には竹町という町名はまだつけられていなかったらしい。『東京地理沿革史』を見るに「下谷竹町はもと佐竹、藤堂、加藤、生駒四氏の邸第並に幕府諸士の宅地なりしを明治五年合併して新に町名を加う。その竹町と唱るは佐竹邸の西門の扉は竹を以て作れるに依りその近傍を竹門と称したれば右に因みて町名となせり。」としてある。なおまた現在竹町四番地としてある番地も以前は二十四番地であったらしい。明治十年四月の官員録を見るに大審院五等判事正六位鷲津宣光下谷竹町二十四番地と記してある。明治十一年六月刊行の『東京地主案内』というものにも竹町二十三番地百二十坪、同二十四番地百九十二坪鷲津宣光としてある。明治十四年の官員録に至って始めて鷲津氏の住所が竹町四番地に改められている。
明治五年壬申七月枕山毅堂二人の旧友なる横山湖山がこの年五十九歳にして東京に来り、池の端の某処に居を卜しこれを談風月楼と称した。