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したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页
祖母に育てられた児の俚諺にも三文やすいと言われているのも無理ではない。わたくしは小石川なる父母の家を離れて下谷なる祖母の家に行くことをいかに嬉しく思ったであろう。当時の事は既に「下谷の家」と題した一小篇に記述した。雑誌『三田文学』の初て刊行せられた年の同誌に掲げんがため筆を秉ったのであるから、これさえ早く既に十四、五年を過ぎている。
下谷の家は去年癸亥九月の一日、東京市の大半を灰にした震後の火に燬かれてしまった。わたくしが茲に下谷叢話と題して下谷の家の旧事を記述しようと思立ったのは、これによって聊災禍の悲しみを慰めようとするの意に他ならない。
下谷の家はわたくしの外祖父なる毅堂鷲津先生が明治四年の春ここに居を卜せられてより五十有二年にして烏有となった。その日下谷の家にはわたくしの伯父母とやがてその後を嗣ぐべきわたくしの弟貞二郎とその妻と児女三人とが住んでいた。幸にして老幼一家皆恙なく、相扶けて難を上野公園に避けたのである。
下谷の家の旧主人鷲津毅堂は江戸時代の末造から明治の初年にわたって世に知られた儒者である。向島白鬚神社の境内に毅堂の姓名を不朽ならしめんがため、その事蹟と家系とを記した石碑が今なお倒れずに立っている。