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したやそうわ

下谷叢話

永井 荷風

自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页

青空文庫

文化十三年江戸を去り翌年郷里に還って後、文政三年三月十七日稲津長好の女を娶った。時に星巌は年三十二であった。その妻は張香蘭と称して詩を善くした。星巌は妻張氏と相携えて長崎に遊び、山陽南海の諸州を遍歴し、京畿の間に吟遊すること前後二十年。天保三年九月その齢四十四、三度東行の途に上らんとする時、その友頼山陽の病を京師に問い、江戸に来って巻菱湖が鉄砲洲の家に旅装を解いた。それより一年ほど星巌は八丁堀に居していたが火災に遇い、遂に地を神田お玉ヶ池に相して新に家を築き、天保五年十一月某日に移り住したのである。

お玉ヶ池は今日神田松枝町の辺である。和泉橋の南方電車通の西側である。江戸時代にあってはお玉稲荷の伝説と藍染川の溝渠に架せられた弁慶橋という橋の形の変っていた事との二つから、汎く人に知られた地名であった。寛政の初、市河寛斎がここに江湖詩社を開き、尋いで大窪詩仏が文化の末より文政の終までまたここに居邸を構えていた。これによってお玉ヶ池の地は久しい間東都文雅の淵叢となっていたが、度々の火災に二家の旧居も蕩然としてその跡なく「都門の文雅も遂に寥落を致す。」が如き思あるに至った。