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したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页
尾公ノ家臣原氏ノ女ヲ娶リ四男一女ヲ生ム。曰ク典。吉。混。茂。女ハ先ニ死ス。典ト茂トハ今征夷府ニ事フ。不肖ノ男混謹ンデ状シ、言ヲ四方ノ君子ニ乞フ。」
この行状は文化十一年の頃幽林の長子竹渓典と三子松隠混との二人が亡父の詩稿を編輯し、『幽林先生遺稿』と題して四方の君子に題言批評を乞わんとした時これをつくったものであろう。わたくしは『幽林先生遺稿』を尾張丹羽郡の鷲津家から借り得てこれを閲読した。行状の中には年号干支に天明丙辰となしたるが如き伝写の誤がある。(丙辰は丙午ならずば甲辰の誤であろう)また浅学寡聞のわたくしには読み得ざる所もある。
鷲津幽林は寛政十年十月十七日享年七十三で没した。さればその生れたのは享保十一年丙午である。即新井白石の没した翌年にして安達清河、立松東蒙の生れた年である。(茲に一言して置く。わたくしはこの拙著中人物の生死を記するに大抵没あるいは終の語を以てし縉紳公侯の死にも薨といい卒という語を用いないようにしている。)さて鷲津幽林は天明三年名古屋の城主徳川宗睦の再興した明倫堂の教官に挙げられたが儕輩の嫉みを受けたので、その旧師芥川丹丘の病を問うことに托して郷国を去ったという。