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まと

魔都

久生 十蘭

「新青年」博文館、1937(昭和12)年10月~1938(昭和13)年10月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 293,999 字 · 578 页

青空文庫

勝手にさせて置いたらいいじゃないか」

「しかし、……もう、これでお目にかかれぬのだと思いますと、……それにろくにお別れの言葉も申し述べずに……」

「くどい!」

ヒソヒソ話はこれでお終いになって、部屋の中は再び以前のような深沈たる趣きにかえる。どこかに置時計があるのだろう、時の流れはこのチクタクという音を媒介にして、ややもかも気ぜわしい渓流の音をたてる。

こんなふうにして五分、あるいは十分も経ったであろうか。廊下の遠い端の方で、扉の蝶番が軋るような仄かな音がした。一分ほど間を置いて、湿った土の上を踏むような、猫の棟伝いをするような、あるかなきかの低い足音がその方に起って、次第にこちらへ近づいて来る。途絶えては起り、途切れてはまたつづき、念の入った忍び足で玄関の近くまでやって来てそこで止る。

扉がソロソロと押開けられ、何物であろう、ヒョロ長い影を先に立てて、よろめき勝ちな黒影が玄関の間へ入って来た。

食堂の闇の中からその方を見ると、壁の上の四角な月影が古鏡の面のように薄光りしている、その中に今しも投影されたそれこそは実に意外な人物の姿だった。

官服の襟元をだらしなくくつろげ、丸く背を曲げて前屈みになった、極めて特徴のある横向きの姿。