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じろきちこうし

治郎吉格子 名作短編集(一)

吉川 英治

Read 治郎吉格子 名作短編集(一) (じろきちこうし) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.

N2 · advanced · modern kanji and kana · 178,609 characters · 362 screens

Aozora Bunko

「じゃ、支度をして来なかったのか」

「ええ。……だって、とても乾分たちの眼があって」

女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、

「でも、私は、嬉しい」

と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。

(馬鹿。馬鹿。馬鹿)

自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。――まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが!

(金なのだ。俺がいま欲しいのは。――江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体)

だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている――

「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、

「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」

「そんなに、この頃は、飲むのですか」

「半日も、一刻も、酒がなしじゃいられねえ」

「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう飲げない。そして可愛がってばかりあげる」

一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。

「あら、何処へ」

「居酒屋だ」

戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、枡をうけ取った。樋の雨水が、ざっざと、背なかを打つのであった。