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じろきちこうし
治郎吉格子 名作短編集(一)
吉川 英治
Read 治郎吉格子 名作短編集(一) (じろきちこうし) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 178,609 characters · 362 screens
川波
西奉行所の黒い屋根に、きょうも夕鴉が啼いていた。
「鴉啼きが悪い……」
その時、襖が開いた。
「まいにち御退屈様で」
「あ、番頭さんか」と、ちょっと、膝を直して――「勘定だろう」
と、先手を打った。
「へ。毎度うるさく申し上げて恐れ入りますが、帳場の方で、いちど、お極りをつけて戴きたいと申しますんで」
「あ、いいとも。だがきょうは少し都合がわるい。知り人の家をたずねたところが、生憎と留守でな」
「それでは明日には、ぜひともひとつ」
「諄くいいなさんな」
客の顔いろを、敏く見て、
「今夜は、お酒は」
「お、膳が来ていたのか。酒はいらねえ。宿屋の飯にも飽きたから、稀にゃ外で、何か美味いものでも拾い食いしてみたい」
番頭がもどるとすぐ、治郎吉は、一枚かんばんの素袷を着直して、きゅっと、帯を鳴らした。
「お仙、行って来るぜ。不味かろうが、飯はひとりで食ってくんな」
「どこへ」
と、彼女の眼には不安があった。
「どこったって、べら棒め、白浪の行く先がいえるもんけ」
とん、とん、とん、と梯子を下りて行った。
川波
「――秋だよ。治郎吉が金に乾あがるなんてこたあ、近年珍しい秋かぜだ」
と、治郎吉は、自分のふところの空虚を嗤いながら、あてもなく、宵を歩いた。