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あるはいまつのどくはく
ある偃松の独白
中村 清太郎
春雪写山行「旅」1940(昭和15)年4月<br>黒部川峡谷の話「山岳 第十二年第一号」1918(大正7)年2月<br>枯木の美と怪「国立公園」1952(昭和27)年3月<br>雪山と廃道「山 二巻二号」1935(昭和10)年2月<br>七面山冬ごもりの記「山小屋」1947(昭和22)年<br>黒部川初遡行の追憶「山と渓谷」1939(昭和14)年7月<br>大雪山あれこれ「国立公園」1955(昭和30)年
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 132,905 字 · 262 页
おのづから香に匂う春の山気かな
やがて、軒端や木末から、点滴が落ちはじめ、四方の山々が、淡すり霞だつ。富士は、寝起きの眼に、急にはそれと、見分けにくいほど、大空と一様に照り輝く。日中となれば、まるで宙に浮かんだ、目も眩むばかりの大光体。夜のお山も、おぼろに明るく、暗い空さえ、もやもやと温か味。だが、そんな後は、また雪だ。それも春らしい牡丹雪。
三月に入るや、四面すべて、深い雪に埋もれ果てる。常葉木は、すぼめた傘なりに、さも重たげに枝を垂れ、影嚮石も厚い綿帽子を被ぎ、堂の羽目板まで白いものが斑々。そうした景色を眺めていると……鎧や狩衣や烏帽子など着けた人物が、雪路を踏み分けて、今にもあれ、そこへ、向うの木かげから――それが、まざまざと、眼にちらついてかなわぬ! 当時の日記は、そう訴えている。夢か、はた現つか。恐らく、古い物語、能、演劇の連想か、あるいは又もっと深く、血にひそむ、祖先の経験の発露か……いずれ、時世とかけ離れた山住みが生む、浪漫的な幻影でがな。
こうして、往来も久しく絶えた、ある夕暮、ただならぬざわめきとともに、――先生! 何ぞ、腹薬を、持って御座らっしゃらぬか……と、画中の世界から呼び覚まされて、急に我に帰った私の、怪しむ耳へ、堂守のおろおろ声。