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あるはいまつのどくはく

ある偃松の独白

中村 清太郎

春雪写山行「旅」1940(昭和15)年4月<br>黒部川峡谷の話「山岳 第十二年第一号」1918(大正7)年2月<br>枯木の美と怪「国立公園」1952(昭和27)年3月<br>雪山と廃道「山 二巻二号」1935(昭和10)年2月<br>七面山冬ごもりの記「山小屋」1947(昭和22)年<br>黒部川初遡行の追憶「山と渓谷」1939(昭和14)年7月<br>大雪山あれこれ「国立公園」1955(昭和30)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 132,905 字 · 262 页

青空文庫

タカネヒカゲ

南進してスバリ岳の夜営の時だ。夕食前の焚火を囲んで、私は例によって「虎ノ子」を取出す。折しも一陣の旋風が巻起って、私の手から紙包みをさらい、アッという間にそれは、あたかも蝶が生き返った如く、ヒラヒラと夕空に舞い上ってゆく。呆気にとられて天を仰ぐ私の耳に、もう駄目だヨ――あきらめたまえ――などいう声が入る。蝶を失うことが辛いだけに、この声は情けなかった。だが私はかすかに視野にひらめく白点から眼を離さない。あら不思議や、殆んど消えかけた白点が、だんだんまたハッキリしてくるではないか。風が死んで、それは落ちてきたらしい。身ぶるいして私は、落ちる谷間に眼を配る。どうか遠くでないように……私は祈った。奇跡的にもそれは、割に近く、足下の急斜面に茂る偃松さして舞い落ちる。私はがけを駈けおりた。落下点を頭に刻みつつ。目当ての偃松を物色すると、あった、あった、尖った葉むらの掌が、軽くそれを支えている。私は感謝に戦く手で、三たび蝶を捉え得たのだ。戻りのガレは這いながら登った。

タカネヒカゲ

旅程は立山山脈に移って、さらに疑問が多く距離も長いだけに、緊張はいっそう。事実五色ガ原から薬師へ移る稜線で、山人の一人が谷に落ち、生死を気遣う眼に、人ならぬ熊が映るなど肝を冷した。