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あるはいまつのどくはく

ある偃松の独白

中村 清太郎

春雪写山行「旅」1940(昭和15)年4月<br>黒部川峡谷の話「山岳 第十二年第一号」1918(大正7)年2月<br>枯木の美と怪「国立公園」1952(昭和27)年3月<br>雪山と廃道「山 二巻二号」1935(昭和10)年2月<br>七面山冬ごもりの記「山小屋」1947(昭和22)年<br>黒部川初遡行の追憶「山と渓谷」1939(昭和14)年7月<br>大雪山あれこれ「国立公園」1955(昭和30)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 132,905 字 · 262 页

青空文庫

温泉宿は、川を直上にへだたる、およそ二十間ばかりの山腹にあり、なによりもまず前山が鼻先きに壁立して、グイと胸を圧されるばかりのいきおいに、気を奪われてしまう。しかも直下の谷水は、ろくろく眼には入ってこないのだ。山奥の温泉宿というものに、なんらか予想を抱いてくるほどの旅客なら、かなりよく黒部川を想像し得た場合でさえ、事があまりに意表に出ているため、多少の幻滅感を抱かないではすまないかもしれぬ。だが、待ち給え、それは一時の話にすぎない。落ちついた心で四辺を見廻すにつれ、やがてどんな想像も及ばなかったほどの「善いもの」が、いかに自分を取りまいているか……それに初めて気がついて、膝を打つにちがいない。

ちょうどここは、大蓮華の側壁百貫山と、三名引、毛勝の裾山とが、すれすれに額を突き合せた、その狭い廂合わいに当るのだ。欅、桂、栂、姫子、黒部杉、楓、楢など、針葉闊葉の大樹が、山壁のどんな処までも生いすがって、上へ上へと累積し、峯の極まるあたりは、浅い軒廂のなおこなたにあって、柱を捉えて首を伸ばして、初めてようやく、天心巻雲のなびくほとりに、その頂きを突き入れているのが見られよう……。