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はなとりゅう
花と龍
火野 葦平
花と龍「読売新聞」読売新聞社、1952(昭和27)年6月20日~1953(昭和28)年5月11日<br>あとがき「花と龍(下巻)」新潮社、1953(昭和28)年7月31日<br>解説「火野葦平選集 第五巻」東京創元社、1958(昭和33)年
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 410,131 字 · 824 页
「ただ今」
玄関の閾をまたぎながら、そういったらしいのだが、誰の耳にも聞きとれなかった。
「お父さん、どうしたの?」
マンのその言葉が聞えたのか、聞えなかったのか、うつろな眼で、ジロリと見て、
「ウンコじゃ」
くぐもった声でいって、ゆらゆらと、便所の方に行った。廊下の欄干を伝いながら、大便所の戸を開けて入った。
「変じゃなあ」
ババンも、不審そうな顔をしている。
かすかな風が庭の立木を鳴らし、池でしきりに鯉か鮒かのはねている音がする。その音が静かな夜の空気を破っているばかり、便所の方は森閑としていて、コトッという音もしない。おどけ好きの金五郎は、大便所から、わざと、家中にひびくような巨大な放屁をして見せることがあるのだが、小さなその音もしなかった。
マンは胸騒ぎがして来た。
「秀子、ちょっと行ってごらん」
秀子は、立って行った。まもなく、便所の方から、けたたましい声が起った。
「お母さん、早よ来てえ。お父さんが、死んどるう、……」
マンは、弾丸のように、飛んで行った。ババンがその後から続いた。便所の前で、秀子が、おんおん泣いている。開かれた戸の中に、金五郎が、提灯をたたんだようにくず折れているのが見えた。