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はなとりゅう

花と龍

火野 葦平

花と龍「読売新聞」読売新聞社、1952(昭和27)年6月20日~1953(昭和28)年5月11日<br>あとがき「花と龍(下巻)」新潮社、1953(昭和28)年7月31日<br>解説「火野葦平選集 第五巻」東京創元社、1958(昭和33)年

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 410,131 字 · 824 页

青空文庫

動かない。

そっと、近よった。眼がひきつり、乱杭歯をむきだしにして、唇の部厚な口が、ポカッと開いている。狸のようである。マンは、耳を男の胸にくっつけてみた。それから、そこらに散乱している煙草の葉をかきあつめ、笊に入れた。それを持って、水車小屋を出た。

井戸の底から見あげるような空に、うす赤い夕焼雲がただよい、一羽の鳶が悠々と舞っている。あたりには、家もなく、人影もない。キョーン、と一声、遠くに、狐の声が聞えた。

マンは、水車のところに来た。笊を置き、水車をまわしている瀬の岸にしゃがんだ。落ちて来る谷川の流れで、手を洗った。それから、水を両手ですくい、ごくごくと飲んだ。咽喉がひどくかわいていた。澄んだ冷たい水が、食道から胃袋へ通ってゆくのがわかり、

「ああ、おいしい」

と、思わず、声が出た。

かすかな黄昏の光のなかで、マンは、すぐ眼のまえの流れに一匹の鮠のいるのを認めた。水はかなりはげしく流れているのに、小さな魚は流れにさからって、間断なく鰭をうごかしながら、ほとんど停止している。すこしずつ、進む。それを見ると、マンはしいんとした気持になり、すこし落ちついた。