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したやそうわ

下谷叢話

永井 荷風

自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页

青空文庫

毅堂が『聖武記採要』の事を述べたについて、わたくしはここに嶺田士徳の『海外新話』なる著述についてもまた一言して置きたい。士徳は楓江と号して、梁川星巌の江戸にあった頃、枕山湖山らと交遊のあった事は既に本書の第五回天保七年の条に記した。楓江は早くより蝦夷開拓の志を抱き兵法を清水赤城に、蘭学を箕作阮甫について学び、天保十二年の夏江戸を去って松前に赴いた。枕山湖山らの集にはいずれも楓江に寄せた詩が載っている。楓江はその後江戸に還って、嘉永二年の秋『海外新話』五巻を出版した。この書は英清鴉片戦争の顛末を通俗平易に書きつづり挿画を入れて、軍記の如き体裁となし、英人侵略の懼るべきことを説いたのである。幕府は徒に人心を騒すものとしてこの書を差押え、著者を捕えて獄に投じ、嘉永四年の春に至って放免したがなお江戸大坂京都の三都市に居住することを禁じたので、楓江はそれより南総の諸邑に流寓し、南総請西村に学舎を開き生徒を教えていた。安政の初江戸に還り外交に関する意見書を時の老中安藤対馬守に献じ初てその知遇を受けるようになった。元治元年幕府征長の役には楓江は田辺藩の陣中にあって軍議に与った。