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したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页
寛政以後江戸に名を知られた詩人は大抵この三社のいずれかに参したものである。而してこの三社の詩風もまた大抵相同じであった。徂徠の古文辞派が唐詩を模範となしたのに反し、寛政以降化政の詩人は専宋詩を尚んだ。当時の詩風を代表すべきものは寛斎の門より出でた柏木如亭、大窪詩仏、菊池五山である。梁川星巌に及んで唐宋元明の諸風を咀嚼し別に一家の風を成した。
天保六年の冬大沼枕山の江戸に還り来った時は、あたかも梁川星巌の居宅が神田お玉ヶ池に新築せられた翌年である。
かつて江湖詩社の盟主であった市河寛斎は既に文政の初に没して、下谷長者町なる旧邸の門前にはその男米庵の書を請うものが常に市をなしていた。寛斎の門人柏木如亭もまた既に京師に没していたが、同門の大窪詩仏、菊池五山の二家はなお健在であった。詩仏は文政十二年お玉ヶ池の詩聖堂が焼亡して後、佐竹侯の邸内から下谷練塀小路の家に移り、この年天保六年六十九歳の春には、「腕力于今猶健在。一揮千紙未為難。」〔腕力今ニ于テ猶健在ナリ/一タビ揮ヘバ千紙モ未ダ難シト為サズ〕との意気を示していた。
菊池五山もまた矍鑠として数年前にはその詩話の補遺四巻を上木し、連月十六日を期して詩会を本郷一丁目の邸宅に開いていた。