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じろきちこうし
治郎吉格子 名作短編集(一)
吉川 英治
Read 治郎吉格子 名作短編集(一) (じろきちこうし) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 178,609 characters · 362 screens
「そうですか、応挙は亡くなりましたか。そうでしょうな。もう……そうでしょう……」
と、心で指を繰るように、眼をふさいでいたが、またちらと、仏壇を気にして、
「運座では、お戻りの遅いはず。ご主人のお帰りなさる間、こうしておるも所在ない。お仏壇へ暫時、誦経をおゆるし下さるまいか」
「え……さあ?」
と、娘は、迷惑げな顔をしていたが、もう彼が、草鞋を解きかけているので、少し針箱を片寄せてそのまま、他念のない針をチクチク運んでいた。
静かに心蓮は、彼女のうしろに立った。そして、土間からは見えなかった仏壇の位牌に眸をこらした。もう竹藪の雪が落ちるほど積ってきたのか、ざざっ、どどっ、と地ゆるぎのするたびに燈芯の灯がゆらめくのだった。
「あッ……」
心蓮の顔は、とたんに、血の気を失っていた。
法名と共に、書いてある月日。そのわきには、俗名高梨外記。
鉦も鳴らぬ……。誦経の声もいつまでしない。
どどどと、雪の音だ。
まるで、真空のような静かさだ。女は、ふっと縫い物に無心な心を寒くした。
針の先が、妙にふるえる。――自分のふるえではないのに――と、ふと、眼の隅から袂の後ろを恐る恐るのぞくと、行者心蓮の足は、畳についていないようにがくがくと顫えているのであった。