후리가나로 읽는 일본 고전
ja-reading.com
후리가나가 있는 일본 고전을 온라인으로 읽으세요. JLPT 수준으로 골라 보고, 단어를 눌러 뜻을 확인하고, 문장을 번역하세요.
したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
永井 荷風의 下谷叢話(したやそうわ)을 후리가나와 함께 일본어로 읽으세요. JLPT N2. 단어를 누르면 뜻이 나옵니다.
N2 · 고급 · 신자체·신가나 · 122,971자 · 246화면
第五
花亭もまた竹渓と相識っていた。
藤堂家の儒者塩田随斎もまた当時有名の詩人にして同じく竹渓が生前の友である。文政八年随斎が本藩安濃津に開かれた藩校の講官に擢んでられて江戸を発する時、竹渓は七古一篇を賦してその行を送ったことがある。「三十而立塩田子。言行寡尤徳惟馨。」〔三十ニシテ立ツ塩田子/言行尤寡ク徳惟レ馨ル〕随斎はその時二十八歳であったのである。
斯くの如く列記し来れば天保の半における江戸詩界の諸大家は大抵枕山が亡父の友であったわけである。その中に就いて菊池五山、塩田随斎、梁川星巌の三家は年少の枕山を遇すること最厚かった。
第五
わたくしは既に大沼枕山が十八歳にして江戸に還り来った時、あたかもその前年梁川星巌の詩社が神田お玉ヶ池に開かれたことを述べた。
梁川星巌、名は孟緯、字は伯兎、後に公図。初め詩禅と号し後に星巌と改めた。通称は新十郎、美濃国安八郡曾根村の人。年十四、五の頃父母を失うや、家をその弟に継がしめて江戸に来た。蒲生亭の『近世偉人伝』には十二歳にして父母に別れ十五歳にして江戸に遊学したとしてある。星巌は古賀精里、山本北山の二家に就いて業を受けたがいくばくもなくして帰省し、七年を経て年二十二、文化七年に至って再び江戸に来り、北山の奚疑塾にあること六、七年、夙に詩を以て儕輩の推す所となった。