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いしかりがわ
石狩川
本庄 陸男
「石狩川」大観堂、1939(昭和14)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 253,535 字 · 506 页
「阿賀妻さん、行ってみましょうか」
「どうぞ、お先に――」
彼はこのとき同職になっていた相手にそう云った。矢内亀之丞という武士らしい立派な姓名より、今の彼の恰好は木挽きの亀さんと云った方がもっともふさわしく見えた。ごま塩の小さな髷を手ぬぐいで包んで、尻からげの上にうしろ手を組み矢内亀之丞はゆっくり出て行った。その他意なげな後姿が見ている阿賀妻の胸をつめたく浸して来るのであった。仕事は進めねばならなかった。しかし、その仕事がともかく成功することは、彼らがあのように卑めていた、より低い階級に、すいと乗りうつることであった。出来たんだ、出来あがったんだ。――そういう喜びに浮かれて、そのとき足はふわふわと次の身分に辷りこんでいる。
「それではお先に――」と、ふり向きもせずに矢内は云った。
建築場のあたりから、微風におくられた人々の気配が伝わって来た。
「すぐに参りますで」と阿賀妻は追いかぶせて云った。
彼の前には、鋸の刃を吸いつけた角材が立ちあがっていた。墨の色は途中で消え、そこまで挽かれて何日か投げだされてあったものだ。今の場合、是非ともその鋸の柄に手をかけねばならぬわけではなかった。