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いしかりがわ

石狩川

本庄 陸男

「石狩川」大観堂、1939(昭和14)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 253,535 字 · 506 页

青空文庫

降って湧いたようなこの嬉しさをどうしようもないのであった。少女のように浮き立って――顔を見れば涙がこぼれそうな、こんなに男を待っていたのか、と、われと我が身が憐おしくなる切ないような気持であった。男の足許にしゃがんだが、手もとがふるえるのだ。解いてやろうとする脚絆の紐が縺れるのだ。

すすぎに足をおとして、男はしずかにたずねた。

「お客人はどなたかな?」

あしゆびの股を丹念に拭きこみながら彼は重ねて云った。

「どこぞでお見かけしたようだが――失礼ながら、どうも」

脱ぎすてた足装束を取りまとめていた妻は、何故か耳のつけ根を赤くした。彼女は詫びるように低い声で答えた。

「トキどの――玉目さまの」

「なに?」

ぱちゃンと足をおとして阿賀妻はうしろを振りかえった。あわててその女を見定めようとしていた。

すでにトキ女は炉の前にはいなかった。いつの間にか戸口に近い下座の方に身をすべらし、音もなくそこにすわっていた。自分に向けられる阿賀妻の注意がどんなものであるか、身のすくむような思いで待っていた。こちらを向く気配にもう頭を低げていた。そんなふうに身をかがめて、吹きつけて来る風当りを少しでも避けようとしていたのだ。