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したやそうわ
下谷叢話
永井 荷風
自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页
鷲津毅堂は『告詰篇』一巻を著してこれを水戸前中納言斉昭に献じた。これは藤森弘庵の手を経たものであろうとわたくしは推測している。
藤森弘庵のことは本書の第九回天保十一年の章に言ってある。弘庵は弘化四年土浦の藩校を去り江戸に帰って日本橋槙町に居し翌年麹町平川町に移りまたその翌年下谷三味線堀に転じ家塾を開いてこれを塾と称した。弘庵は夙くより水戸の家臣藤田東湖と親しく交っていたので、水戸前中納言は東湖に命じて海防に関する意見を弘庵に問わしめた。弘庵の声名は当時東都の学者中最嘖々としていた故である。弘庵は『芻言』五巻を草して水戸前中納言に献じ以後十人扶持を給せられた。七月に至って弘庵は更に『海防備論』二巻を著した。この著は今『嘉永明治年間録』に採録せられている。
七月二十二日に将軍家慶が薨じた。年六十一である。その第三子家定が将軍の職を襲いだ。年三十二である。
藤田東湖、藤森弘庵の二人は十一月徳川家定が将軍宣下の式を行う時勅使の京都より下向するを機とし、これより先に京師の縉紳公卿を遊説し攘夷の勅旨を幕府に下さしめようと謀った。鷲津毅堂はこの密謀に参与し京師の縉紳を遊説するには最も適した人物としてその友松浦武四郎なるものを弘庵に紹介した。