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したやそうわ

下谷叢話

永井 荷風

自序「下谷叢話」春陽堂、1926(大正15)年3月20日<br>第一~第四「女性 第五巻第二号」プラトン社、1924(大正13)年2月1日<br>第五~第十一「女性 第五巻第三号」プラトン社、1924(大正13)年3月1日<br>第十二~第十五「女性 第五巻第四号」プラトン社、1924(大正13)年4月1日<br>第十六~第二十二「女性 第五巻第五号」プラトン社、1924(大正13)年5月1日<br>第二十三~第二十九「女性 第五巻第六号」プラトン社、1924(大正13)年6月1日<br>第三十~第三十五「女性 第六巻第一号」プラトン社、1924(大正13)年7月1日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 122,971 字 · 246 页

青空文庫

松浦武四郎、名は弘、字は子重、北海または多気志楼と号した。文政元年二月六日伊勢国一志郡須川村に生れた。幼にして僧とならん事を願ったが父の聴しを得なかったので十三歳の時津藩の督学平松楽斎の門生となり、三年の後十六歳にして家を出で東海東山両道を漂泊し、天保九年長崎に抵り遂に僧となり平戸の某寺に住したが、弘化元年に至り還俗して蝦夷地探険の途に上った。鷲津毅堂は弘化二年江戸に来る以前より早く松浦と相識っていたようである。思うに武四郎は諸国遊歴の途次鷲津益斎が丹羽村の塾に寄寓していた事があったのであろう。毅堂と松浦との交は維新の後に至るまで終生変るところがなかった。わたくしの母の語るところによれば、松浦翁はいつも早朝毅堂先生のなお臥褥を出でざる頃訪い来り、枕頭に坐し高声に笑談して立ち帰るを常とした。今日下谷の鷲津氏がその家に恒産を有するのは維新の後松浦氏が頻に貨殖の道を毅堂に説きかつ教えた故であるという。

松浦武四郎は東湖弘庵の二人より水戸藩の内命を受け、この年の秋京師に赴いた。毅堂はこの行を送って「穿入京城五彩雲。昂然野鶴出※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)羣。