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ちじんのあい
痴人の愛
谷崎 潤一郎
「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页
「おい、河合君、まあかけ給え」
と、ニヤニヤ笑いながら呼び止めたのは、Sと云う男でした。Sはほんのり微醺を帯びて、TやKやHなどと一つソオファを占領して、そのまん中へ私を無理に取り込めようとするのでした。
「まあ、そう逃げんでもいいじゃないか、これから何処かへお出かけかね、この雨の降るのに。―――」
と、Sはそう云って、孰方つかずに衝っ立ったままの私の顔を見上げながら、もう一度ニヤニヤ笑いました。
「いや、そう云う訳じゃないけれど、………」
「じゃ、真っ直ぐにお帰りかね」
そう云ったのはHでした。
「ああ、済まないけれど、失敬させてくれ給え。僕の所は大森だから、こんな天気には路が悪くって、早く帰らないと俥がなくなっちまうんだよ」
「あははは、巧く云ってるぜ」
と、今度はTが云いました。
「おい、河合君、種はすっかり上ってるんだぜ」
「何が?………」
「種」とはどう云う意味なのか、Tの言葉を判じかねて、私は少し狼狽しながら聞き返しました。
「驚いたなアどうも、君子とばかり思っていたのになア………」
と、次にはKが無闇と感心したように首をひねって、
「河合君がダンスをすると云うに至っちゃあ、何しろ時勢は進歩したもんだよ」