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ちじんのあい
痴人の愛
谷崎 潤一郎
「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页
それは今夜に限ったことではありませんが、その晩はまた、日の暮れ方にさっと一遍、夕立があった後だったので、濡れた草葉や、露のしたたる松の枝から、しずかに上る水蒸気にも、こっそり忍び寄るようなしめやかな香が感ぜられました。ところどころに、夜目にもしるく水たまりが光っていましたけれど、沙地の路はもはや埃を揚げぬ程度にきれいに乾いて、走っている車夫の足音が、びろうどの上をでも蹈むように、軽く、しとしとと地面に落ちて行きました。何処かの別荘らしい家の、生垣の奥から蓄音器が聞えたり、たまに一人か二人ずつ、白地の浴衣の人影がそこらを徘徊していたり、いかにも避暑地へ来たらしい心持がするのでした。
木戸口のところで俥を帰して、私は庭から離れ座敷の縁側の方へ行きました。私の靴の音を聞いてナオミが直ぐにその縁側の障子を明けて出るであろうと予期していたのに、障子の中は明りがかんかん燈っていながら、彼女の居そうなけはいはなく、ひっそりとしているのでした。
「ナオミちゃん、………」
私は二三度呼びましたが、返辞がないので、縁側へ上って障子を明けると、部屋はからッぽになっていました。