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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

と呼ぶのを聞くと、むしずが走るほどイヤだったのです。

「おい! お前は熊谷と関係があったんだろう? 正直のことを云っておしまい!」

「関係なんかありゃしないわよ、そんなにあたしを疑ぐるなら、証拠でもあるの?」

「証拠がなくっても己にはちゃんと分ってるんだ」

「どうして?―――どうして分るの?」

ナオミの態度は凄いほど落ち着いたものでした。その口辺には小憎らしい薄笑いさえ浮かんでいました。

「昨夜のあのざまは、あれは何だ? お前はあんなざまをしながらそれでも潔白だと云える積りか?」

「あれはみんながあたしを無理に酔っ払わして、あんななりをさせたんだもの。―――ただああやって表を歩いただけじゃないの」

「よし! それじゃ飽くまで潔白だと云うんだな?」

「ええ、潔白だわ」

「お前はそれを誓うんだな!」

「ええ、誓うわ」

「よし! その一と言を忘れずにいろよ! 己はお前の云うことなんか、もう一と言も信用しちゃいないんだから」

それきり私は、彼女と口をききませんでした。

私は彼女が熊谷に通牒したりすることを恐れて、書簡箋、封筒、インキ、鉛筆、万年筆、郵便切手、一切のものを取り上げてしまい、それを彼女の荷物と一緒に植惣のかみさんに預けました。