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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

私はさっきも、あの喧嘩の真っ最中に覚えずその美に撲たれたのみならず、「ああ美しい」と心の中で叫んだのでありながら、どうしてあの時彼女の足下に跪いてしまわなかったか。いつも優柔で意気地なしの私が、いかに憤激していたとは云えあの恐ろしい女神に向って、どうしてあれほどの面罵を浴びせ、手を振り上げることが出来たか。自分のどこからそんな無鉄砲な勇気が出たか。―――それが私には今更不思議なように思われ、その無鉄砲と勇気とを恨むような心持さえ、次第に湧き上って来るのでした。

「お前は馬鹿だぞ、大変なことをしちまったんだぞ。ちっとやそっとの不都合があっても、それと『あの顔』と引き換えになると思っているのか。あれだけの美はこの後決して、二度と世間にありはしないぞ」

私は誰かにそう云われているような気がし始め、ああ、そうだった、自分は実につまらないことをしてしまった。彼女を怒らせないようにと、あんなに不断から用心していながら、こういう結末になったというのは魔がさしたのに違いないんだと、そんな考が何処からともなく頭を擡げて来るのでした。

たった一時間前まではあれほど彼女を荷厄介にし、その存在を呪った私が、今は反対に自分を呪い、その軽率を悔いるようになったと云うのは? あんなに憎らしかった女が、こんなにも恋しくなって来るとは? この