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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

それは大そう蒸し暑い晩のことでしたが、ナオミは白っぽい、ふわふわした、薄紫の葡萄の模様のあるモスリンの単衣を纏って、幅のひろい、派手な鴇色のリボンで髪を結んでいました。そのモスリンは先達のお盆に買ってやったので、彼女はそれを留守の間に、自分の家で仕立てて貰って着ていたのです。

「ナオミちゃん、毎日何をしていたんだい?」

車が賑やかな広小路の方へ走り出すと、私は彼女と並んで腰かけ、こころもち彼女の方へ顔をすり寄せるようにしながら云いました。

「あたし毎日活動写真を見に行ってたわ」

「じゃ、別に淋しくはなかったろうね」

「ええ、別に淋しいことなんかなかったけれど、………」

そう云って彼女はちょっと考えて、

「でも譲治さんは、思ったより早く帰って来たのね」

「田舎にいたってつまらないから、予定を切り上げて来ちまったんだよ。やっぱり東京が一番だなア」

私はそう云ってほっと溜息をつきながら、窓の外にちらちらしている都会の夜の花やかな灯影を、云いようのない懐かしい気持で眺めたものです。

「だけどあたし、夏は田舎もいいと思うわ」

「そりゃ田舎にもよりけりだよ、僕の家なんか草深い百姓家で、近所の景色は平凡だし、名所古蹟がある訳じゃなし、真っ昼間から蚊だの蠅だのがぶんぶん呻って、とても暑くってやり切れやしない」