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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

と、又一方からそんな囁きも聞えて来ます。すると私は、今更のように在りし日の母の俤を偲び、済まない事をしたのを感じて、再び悔恨の涙が堰きあえず、あまり泣くので極まりが悪いので、そっとうしろの裏山へ登って、少年時代の思い出に充ちた森や、野路や、畑の景色を瞰おろしながら、そこでさめざめと泣きつづけたりするのでした。

この大いなる悲しみが、何か私を玲瓏たるものに浄化してくれ、心と体に堆積していた不潔な分子を、洗い清めてくれたことは云うまでもありません。この悲しみがなかったなら、私は或は、まだ今頃はあの汚らわしい淫婦のことが忘れられず、失恋の痛手に悩んでいたでしょう。それを思うと母が死んだのは矢張無意義ではないのでした。いや、少くとも、私はその死を無意義にしてはならないのでした。で、その時の私の考では、自分は最早や都会の空気が厭になった、立身出世と云うけれども、東京に出て唯徒らに軽佻浮華な生活をするのが立身でもなし、出世でもない。自分のような田舎者には結局田舎が適しているのだ。自分はこのまま国に引っ込んで、故郷の土に親しもう。そして母親の墓守をしながら、村の人々を相手にして、先祖代々の百姓になろう。