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ちじんのあい

痴人の愛

谷崎 潤一郎

「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页

青空文庫

二階へ上ると、廊下の取っ突きに稽古場があって、「ワン、トゥウ、スリー」と云いながら足拍子を蹈んでいる五六人の人影が、すぐと私の眼に入りました。日本座敷を二た間打ち抜いて、靴穿きのまま這入れるような板敷にして、多分滑りをよくする為めか何かでしょう、例の浜田と云う男が彼方此方へチョコチョコ駆けて歩いては、細かい粉を床の上へまいています。まだ日の長い暑い時分のことだったので、すっかり障子を明け放してある西側の窓から、夕日がぎらぎらとさし込んでいる、そのほの紅い光を背に浴びせながら、白いジョオゼットの上衣を着て、紺のサージのスカアトを穿いて、部屋と部屋との間仕切りの所に立っているのが、云うまでもなくシュレムスカヤ夫人でした。二人の子供があるというのから察すれば、実際の歳は三十五六にもなるのでしょうか? 見たところでは漸く三十前後ぐらいで、成る程貴族の生れらしい威厳を含んだ、きりりと引き緊まった顔だちの婦人、―――その威厳は、多少の凄みを覚えさせるほど蒼白を帯びた、澄んだ血色のせいであろうと思われましたが、しかし凛乎たる表情や、瀟洒な服装や、胸だの指だのに輝いている宝石を見ると、これが生活に困っている人とはどうしても受け取れませんでした。