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いしかりがわ
石狩川
本庄 陸男
「石狩川」大観堂、1939(昭和14)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 253,535 字 · 506 页
だから少しも聞いていなかった。過ぎ去ったどうにもならぬことはどうでもよかったのだ。表面だけふんふんと頷いて、内心ではこの先のことを考えていた。考えねばならぬ立場でもあった。しかし、人々は女の雑言におどろいた。沈黙をやぶるべきであるとお互いに見あった。その頭ごしに邦夷の声が呼んでいたのである。
「誰か、――」
反射的につと立ったのは伜の祐吉であった。邦夷はそれを見て何故か顔をそむけた。そして、たまたまその視線の先にいた従僕に顎をしゃくって見せた。彼は、とぶようにその女に近づいた。かなしみに耄けてしまった初老の女は、逞ましい男にうしろをかかえられ、夜風の戸外に連れだされた。その跡にはかみしも姿の高倉祐吉がぴたりと坐っていた。手をつき頭を低げ、彼は云うのであった。
「お騒がせ致し、重ねがさねのご無礼――まことに」
彼は吃った。あとは、額を擦りつけるようなうやうやしい態度でその意を示すのであった。
「よい、よい」
「ご家老さまにも――」と祐吉は向きをかえた。
「ああ、わたしにもか」と阿賀妻は苦笑を浮べ、やがて今度は何か快心のことを思いついたらしく白い歯をだした。音をたてずほんとに笑っていた。