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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

正月の晩なので、家々はみな、早くから戸を卸し、あたたかな燈火の下で、歌留多をとり合い、笑いさざめき、酒を酌み、餅を焼いていたが、市十郎には、もうそんな人生は、想像にもえがけなかった。

色街に近いのか、堀の雪見舟から洩れてくるのか、三味線の水調子も、どこやらで聞えたが、彼の耳には、何の音でもなかった。

ただ真ッ白な夜の道を、彼の影は、迷い犬のように歩いていた。――が、やがて彼方に、一団の火のかたまりが、赤々と見え出し、彼の眼をひきつけた。

近づいてみると、そこは大きな伽藍の境内であり、山のように薪を積み、大釜からは熾んなる湯気が立ちのぼっている。

傍らの、古木綿の幟には、墨で――

慈眼視衆生       例年正月大施粥

同苦坊

と、書いてある。

問うまでもなく、これは施粥の大焚火だ。

餓鬼草紙の絵に見るような、無数の浮浪者が、その大焚火をとりかこみ、地獄の正月みたいに賑わっている。

年暮のうち、あの浅草観音堂裏や、市中の諸所に、黒々といた浮浪者の群れとは、まるで別な世界の人々のように、みな火照ッた顔をそろえ、喜々として語らい、大きな口をあいて笑い、さながら一大家族の団欒に似ていた。