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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
霜の夜がたり
市十郎は眼が熱くなった。
そこへ、夜鷹蕎麦の担荷が通った。温かそうな葱の香と、汁のにおいが、ふたりの空腹をもだえさせた。胃の疼きが唾液をわかせて抑止しようもない浅ましい意欲に駆られた。
「――おっ、蕎麦屋さん」と、久助はわれを忘れたように呼びとめて「熱いのを、二杯くんな」と、思わずいってしまった。
霜の夜がたり
ふたりは、やがて、かじかんだ手に、夜鷹蕎麦の丼をかかえ、ふウふウいって、喰べあった。五体の血は生命の火を点じられたように活気づいて指の先まであたためた。箸の先に水洟がたれるのも思わなかった。浅ましいというなかれ。無上大歓喜即菩提。人間とは、こんな小やかな瞬間の物にもまったく満足しきるものだった。痛い、痒いも覚えない。名誉、功利、闘争、廉恥、そんなものもなかった。恋、性欲――それもこの次のものだった。
「アア、美味かった……」と、久助は箸と丼を蕎麦屋へ返すと、天にむかって浩嘆した。市十郎は、丼の底に余した汁を、お燕の口に与えていた。
「お代りは? ……」と、蕎麦屋がいった。久助は、よほど、もう一杯といいたそうだったが、心のうちで、闘っているらしい顔をした。