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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
市十郎も、知らぬというので、あんなにニベなく断ってやったのに、夕方、帰宅して召使にきくと、押しづよく、あれからまたもやって来て、「お嬢様にも今そこでお目にかかりまして……」とか何とかいって、小間使いを通じて、とうとう市十郎の書斎に通り、何か、だいぶ話して帰ったというのである。
市十郎にきくと、市十郎は、「会わぬ」と首を振ッたきり、きょうは特に気色がよくない。――お縫はあまり物事にくよくよしない性格だが、「なぜ、私に嘘を……」と思いつめると、食後の白湯も、胸につかえた。
こんな時には、琴でもと、部屋にもどって、昼、習った曲をさらいかけたが、それも心に染まず、絃に触れると、わけもなく泣きたくなった。
窓の外にも、冬ちかい時雨雲が、月の秋の終りを、落葉の梢に傷んでいる宵だった。かの女は、燭の下に、琴を残して、庭へ降りた。
この屋敷ができない前からあったという古い池がある。茂るにまかせた秋草が水辺を蔽い、その向うに、灯が見える。――市十郎の書斎である。
かの女は、池をめぐって、知らず知らずその灯の方へ足を向けていたが、ふと、薄月夜のひろい闇いッぱいに、耳をすまして、立ちどまっていた。