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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

お父さまには、役所の勤めもあるので、そうもゆかぬ。……が、ここへ来る夜は、夜更くるまでも、教えてやろうぞ。……さ、硯を出して、墨をおすり、いつもの、お習字」

「お習字は、好きです。お父さま、もう次のお手本を書いて下さいませんと……」

「もう、そんなに、やっておるのか」

「昼間、ひまさえあると」

「どれどれ、見せい。ううむ。ほんに、すこしの間に、うまくなったの。……が、ここがまだ、すこしいかんな。よし、わしが手を把ってつかわそう」

お燕の一面に、たあいのない純真さのあるために、父の越前守も、ここではまるで、寺小屋のよい先生になりきっている。

彼は、立って、お燕の背なかにまわり、肩ごしに、お燕の筆をもつ手を把って、根気よく、筆法を教えていた。――もう、こんなふうに、いろはのいの字から手を取って教え出してから、一年近くになる。

彼は、心友市川楽翁のすすめにまかせて、世間にもそッと、ここに一軒の別宅をもった。

たれもが、妾宅だと、思っている。うすうす越前の出入りに気づいた近所では、

「お奉行もよいお楽しみができた」

と蔭でいっている。

が、楽翁の養女と称して、野の花からこの家の庭へ移し植えられて来た者は、公にも、すでに死籍の人とされていたお燕であった。