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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
魔笑仏涙
父上とおもえ、この拳を」
と、突ッ放して、
「もう一ぺん、考えろっ。ようく心を落着けて、考えてみい」
主殿は、いいすてて、室外へ、立ち去った。廊下の外へ、用人の嘉平が来て、大岡兵九郎が来た旨を告げたからである。
兵九郎というのは、やはり大岡十家の一軒で、市十郎兄弟の叔父にあたり、市十郎の養子縁組は、この兵九郎の口ききだった。――で、やがてお縫との結婚にも、媒人役はぜひこの人とされていただけに、逸早く、彼もまた使いに接して、何事かと、馳けつけて来たものであろう。
魔笑仏涙
日が暮れた。……雨はやまない。
たれも彼の部屋へ、燭を運ばなかった。夜ごとの燈火も、彼自身で点すのが、この書斎の習慣であったから。――
蒼白な顔ひとつが、そこに、寂として、暮れていた。机のまわりも、かれの心も、墨のような夕闇が深まってゆく。
「すみませぬっ。……兄上。亡き父上。……また養家の御両親さまにも」
かれは、独りして、手をつかえた。鬢の毛が、みな泣いているように、そそけ立って見えた。
「――生れぞこないの市十郎には、迷いのみ出て、どうしてよいか分りませぬ。ただ、お縫どのに、この上の傷みをかけずに、ゆく末、きょうを忘れて、よい人妻となるように、祈って逝かれるのが、唯一のお詫びです。