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どうひょう
道標
宮本 百合子
第一部「展望」筑摩書房、1947(昭和22)年10月号~1948(昭和23)年8月号<br> 第二部「展望」筑摩書房、1948(昭和23)年9月号~1949(昭和24)年5月号<br> 第三部「展望」筑摩書房、1949(昭和24)年10月号~1950(昭和25)年2月号、1950(昭和25)年4月~12月号<br> 資料「展望」筑摩書房、1949(昭和24)年8、9月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 846,457 字 · 1672 页
底が小さくて、胴のふくらんだ空色エナメルのヤカンは、湯のわきがおそいので下宿の主婦からはよろこばれない品だった。朝と夜、伸子はその空色ヤカンをさげて、台所へお茶のための湯をとりに行った。そのとききっと通らなければならない廊下の一番はずれの小部屋が、従業員たちの休憩所だった。その室の一隅から、廊下をゆっくり通ってゆく伸子の空色ヤカンに赤いかげがうつるかと思うほど、賑やかに飾られた「赤い隅」がつくられた。そして、その室の上に「ホテル・パッサージ細胞」と書いた紙がはり出された。
これらのことは、伸子たちの室をうけもっている掃除婦カーチャの生活にも新しい局面をひらいた。たっぷりした美しい声と、ふくよかな胸をもつ若い母親であるカーチャは、伸子たちの室の床を、柄の長い油雑巾でこすりながら、云った。
「この節は、すっかり暮しが新しくなりましてね、わたしたちの隅でも政治教育がはじまりましたよ」
「それは結構だわ、カーチャ。――あなたにはこと更結構よ。わたしの夫は外交官です、だけれども、わたしは彼の仕事について知りません。そんな風だったら不幸だもの」
カーチャの夫は――彼女の言葉によれば――外交官になるために勉強しているのだそうだった。