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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

市十郎を怨みの対象とすることが、今では、市十郎への愛だとさえいえる。恋い焦がれる市十郎なるが故に、夜も日も怨みに恨みつめなければ、それを胸に持てなかった。ときには、その市十郎と、お縫との、ふたりを呪咀の像にえがいて身も心も炎にした。

この陰湿な土蔵二階で、厭な厭な心にもない夜を、あの醜男の化物刑部のもてあそびになって重ねながら、かの女の肉体のうちには、かの女の本心とはかかわりなく、べつにふしぎな変化が醸されていた。どうにもならない屈服の下に、今ではまったく、お袖は、化物刑部のものになりきってしまっていた。――その手へ、ふと、お燕が戻されてきて、かの女の心に、突然、母なるものが呼び醒まされて来てからでも――その子に添え乳しては涙ながら思うことは、市十郎へのうらみであった。世の無情ではなく、男の無情であった。刑部への憎しみよりは、市十郎への募りに募る憎しみであった。

「……思い直してくれ。ゆるしてくれ。お袖、わしは余りに自分だけのことにとらわれていた。わるかった。……どんな償いでもする」

市十郎は、そうしたかの女の前に、どんな悪罵をもうけるのが当然だと思った。