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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
しかも夜目にも白い覆面のうちの横顔は、この春の、恐怖の夜を、思い出させるに、充分だった。
――お袖は、自身番の灯も、辺りの気配も、否、あらゆる怖れをすでに忘れていた。
奉行! 南町奉行……その文字へ、かの女は、唾したいような憎悪をおぼえた。
なんたる権威の嘘。そらぞらしい掟の箇条書。コケ脅し。そんな偽善に、私だけは、騙されはしない――と、かの女の憤りは燃えやまない。
しかし、その根底にある悲恋の傷痕が生々と傷んで来ると、恨みは、純然たる女の復讐だけになった。女の一念と呪いを、眦にえがいて、咬み裂くような声を咽喉につまらせ、
「ちッ、ちくしょうっ」
と、刀を抜き、脳裡の人間像を斬るように、高札の脚へ斜めに斬り込んだ。
斬れない。腕の弱いせいか、一打ちには、斬れないのである。かの女は、一撃ごとに、夜叉の相になった。
――と。その手もとへ。
ひゅッと、何か、飛んで来た。
「あッ――」と、よろめいた時、かの女はそれが、一条の麻縄であることを知った。いうまでもなく、捕り縄だ。
搦んだのは、刀の鍔だった。かの女は、無意識に、刀を投げ捨て、泳ぐようなかたちで、逃げかけた。