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おおおかえちぜん
大岡越前
吉川 英治
「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页
もちろんそれは市十郎に話しかけているのだが、市十郎は、机へ倚り、両手で頭をかかえたきり、返辞もしなければ、ふり向きもしない、背中で聞いているだけである。
眼は、書物へ落していても、もとより市十郎の心は、どこにあるやら、乱れに乱れ、生きているそらもないにちがいない。夜来、家族も、召使も、かれの部屋を、覗きもしなかった。が、一切はかれにも分っていた。かれは、自ら作った牢獄の中に、自ら最大な苦刑にかかっていた。
「おれも悪かったのさ」
返辞はなくても、戸棚の中の小声は外の雨のように、独りぽそぽそと話しかけてやまなかった。
「お袖には、前々から、おめえに会わせてくれ、連れて来てくれと、おれもどんなに、せがまれたかしれなかった。ところが、この間も話したようなお犬小屋一件からは、こッちの身一つも、危くなり、梅賀の家へも寄りつかねえので、女心のやきもちから、お人よしの久助をくどいて、とうとうやッて来ちまったにちげえねえ」
戸棚の声がとぎれると、雨の音が、耳につく。雨は、日暮れに近づくほど、いとど蕭条のわびしさを加えていた。
「……なあ、於市、おめえは、あんなに実意のある女を、かわいそうと思わねえのか。