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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

あらゆる理由はあるに似て、実は何もないのである。あるのはただお袖だけだ。もしお袖との相愛に祝福される境遇を得たら、ほかの理由はことごとく泡沫のようなものだったことを悟ろう。青春の問題の多くがこれだ。――市十郎の場合も例外ではなかったのである。

「オオ寒。くたびれ儲けさ。どうしても買手がねえよ。宝の持ちぐされとはこのことだ」

やがて久助が帰って来た。売りあるいた印籠は、どこへ見せても売れないという。理由は、蒔絵の構図が、葵の紋ぢらしになっているせいだった。

葵の紋は、お犬様と同じだ。さわらぬ神に祟りなし、誰も嫌うのが常識である。まして久助の身なりとそれを見較べては、買手がないのは当然といえる。

「……だがネ市の字。こんな物を、ちッとばかり買って来たから、お燕坊に、やってくんな。この子に罪はねえものを。なあお燕坊。……オヤ、笑ったよ、おれを見て」

飴の袋と、まんじゅうの包みを出し、久助はお燕にそれを喰べさせた。――見れば、久助は、着ていた上着を失って、襦袢ひとつになっている。あの垢じみた一張羅をどこかで脱ぎ、そして、わずかに買ってきたおみやげにちがいない。