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おおおかえちぜん

大岡越前

吉川 英治

「日光」1948(昭和23)年9月~1949(昭和24)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 218,436 字 · 437 页

青空文庫

と、阿能十はあわてて首を横に振り、「何でもありゃしねえがネ」

「もしや、何か、兄の体に?」

答えもせず、阿能十は、手を叩いた。茶めしやのおやじに、銭を払い、早くも笠をかぶり出している。

外へ出た。市十郎も、追いすがるようにそこを出て、忘れたような顔をしている相手の素振りへ、つよく迫った。

「約束だ、阿能。お袖の居所を教えてくれい。――約束ではないか」

「わかッてら、於市。あわてるなよ」

阿能は、そッ気ない大股になって、厩の渡しの方へ歩き、そこにうずくまっていた駕籠屋溜りへ手をあげた。

「二挺だよ。――番町まで」

駕籠賃を先に渡し、道順か何か、細々といっていた。そして、前のへ自分が乗り、後の駕籠を、市十郎に与えて、

「約束どおり、お袖に会わせざなるまいが、余り見せつけてくれるなよ」

と、からかって、駕籠の内へ、乗り分れた。

駕籠の内で、夜となった。――あしたは雪だろうと走りながら駕籠屋はいう。市十郎は、膝の冷えも覚えなかった。ゆうべ犯した罪の怖ろしさもわすれていた。さっき、兄の主殿の身にチラと危惧された不安も掻き消されていた。心はただお袖に会えることだけにあった。