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ちじんのあい
痴人の愛
谷崎 潤一郎
「大阪朝日新聞」1924(大正13)年3月~5月<br>「女性」1924(大正13)年11月~1925(大正14)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 179,399 字 · 353 页
帰りもやはり別々で、今度は熊谷が居残ったらしく、一と足先きにナオミの姿が往来へ現れたのは、かれこれ十一時頃でした。―――私は殆ど一時間半も曙楼の近所をうろうろしていた訳です。―――彼女は来た時と同じように、そこから十丁余りある自分の家まで、傍目もふらずに歩いて行きました。そして私も次第に歩調を早めて行ったので、彼女が裏口のドーアを開けて中へ這入る、すぐその跡から、五分とは立たずに私が這入って行ったのです。
這入った刹那に私の見たものは、瞳の据わった、一種凄惨な感じの籠ったナオミの眼でした。彼女はそこに、棒のように突っ立ったまま、私の方を鋭く睨んでいるのでしたが、その足もとには私がさっき脱ぎ換えて行った帽子や、外套や、靴や、靴下があの時のまま散らばっていました。彼女はそれで一切を悟ってしまったのでしょう、麗かに晴れた秋の朝の、アトリエの明りを反射している彼女の顔は穏やかに青ざめ、総べてをあきらめてしまったような深い静けさがそこにありました。
「出て行け!」
たった一言、自分の耳ががんとする程怒鳴ったきり、私も二の句が継げなければナオミも何とも返辞をしません。